第一章「死なない村」

――死なぬことを、なぜ救いと呼ぶ。

山々の奥深く。
街道からも、地図からも外れた場所に、
ひとつの村があった。


その村には、墓がない。


必要がないからだ。


ここでは——

誰も死なない。


病に伏しても。
老いても。
深い傷を負っても。


やがて身体は元へ戻り、
人は再び立ち上がる。


子は親を失わない。

夫婦は死によって別れることがない。


昨日まで隣にいた者が、
明日にはいなくなっていることもない。


人間が長い歴史の中で恐れ続けてきたもの。


「死」


この村だけが、
それを克服していた。

壱|死者のいない村

旅を続けていたシキがその村を見つけたのは、
日が山の向こうへ沈み始めた頃だった。


村の入口には、古びた門があった。

その先には田畑が広がり、
家々の煙突から細い煙が上がっている。


子供たちが走っていた。

老人たちは軒先で話していた。

夕餉の匂いが漂っていた。

どこにでもある村だった。


少なくとも——

最初は、そう見えた。


シキは数日の宿を求め、村へ入った。


村人は旅人を珍しがったが、
敵意を向ける者はいなかった。


食事を与えられ、
寝床も用意された。

豊かではない。

だが、穏やかな村だった。


その夜。

シキは村人との会話の中で、
奇妙な話を聞いた。


「ここでは人が死なない」


冗談だと思った。

だが誰も笑わなかった。

弐|救われた人々

翌朝。

シキは村の中を歩いた。


そこで、一人の老人と出会った。


老人は何十年も前から、
ほとんど同じ姿をしているという。


病に倒れたこともある。

崖から落ちたこともある。

それでも死ななかった。


そして老人は笑った。


「ありがたいことだ。」


老人には家族がいた。

子がいる。

孫がいる。


そのまた子もいる。

誰一人として、失っていない。

老人は言った。


「死なずに済むのだ。
これ以上の幸せがあるか?」


シキには答えられなかった。

確かに、その通りだった。


愛する者を失わなくていい。

明日も家族に会える。

病に怯える必要もない。

死を恐れる必要もない。


この村には、

人間が何千年も祈り続けてきたものがあった。


救いがあった。

参|終われない者

だが、その日の夕方。

村の外れを歩いていたシキは、
一軒の古い家を見つける。


中には、一人の男がいた。


男が何歳なのか、
シキには分からなかった。


身体は老いていた。

目だけが、異様に静かだった。

男はシキを見ると尋ねた。


「外から来たのか。」


「ああ」


「なら、頼みがある。」


男は長い沈黙のあと、

こう言った。


「俺を、この村の外へ連れていってくれ。」


シキは理由を尋ねた。

男は答えなかった。


ただ、

壁に掛けられた一枚の古い布を見ていた。

そこには、
かつて家族だった者たちの名が記されていた。


妻。

息子。

娘。

孫。


誰も死んではいない。


ただ——


もう男のそばにはいなかった。


永遠に生きられることは、

永遠に同じ場所で、
同じ人間として生き続けることではなかった。


家族は離れた。

関係は変わった。


愛した者は、自分を愛さなくなった。

それでも時間だけは続いた。


男は呟いた。

「もう十分なんだ。」

肆|死ねない

シキはそこで初めて理解する。


この村で失われたのは、

死だけではなかった。


終わること。

別れること。

過去になること。


そして、


自分の人生を終えるという選択。


村人の多くは、それを幸福だと思っていた。


死にたくない者もいる。

家族と永遠に暮らしたい者もいる。

この力を失うくらいなら、
何を差し出してもいいと言う者さえいた。


だが一方で、

終わりを望む者もいた。

問題は、

どちらが正しいかではない。


この村では——

どちらかを選ぶことができなかった。


生きることだけが、

あらかじめ正しい答えとして与えられていた。

伍|村の下

その夜。

シキは眠れなかった。

静まり返った村の中で、
何かを引きずるような音を聞いた。


音を追っていく。


村の奥。

使われなくなった祠。

その地下へ続く、

細い石段。

下へ進むほど、
空気が冷たくなった。


やがてシキは、

巨大な空洞へ辿り着く。

そこには、

土とも、

骨とも、

肉ともつかないものがあった。


八本の細長い脚。

異様に老いた人間の顔。

長く垂れた髭。

動いているのか。

死んでいるのか。

それすら分からない。


遥か昔からそこにいたかのように、


異形はただ、在った。

黄色く濁った眼が開く。

そして、

シキを見る。

原天 第一ノ御霊【不幻老】

長い沈黙の後、

不幻老は口を開いた。


「死なぬことを、なぜ救いと呼ぶ。」

シキは答えなかった。


「死ねば苦しむ者がいる」
ようやくシキが言う。


「残される奴もいる」
不幻老は動かない。


「ならば問おう。
終わりを奪われた者の苦しみは、誰が救う。」


シキは黙った。

答えは出なかった。

陸|正しい世界

翌朝。

村ではいつも通りの一日が始まった。


子供たちは走り、

老人たちは笑い、

家族は食卓を囲んでいた。


誰も死なない。

誰も失わない。


昨日と同じように、

明日も彼らは生きている。

それを幸福と呼ぶ者がいる。

それを牢獄と呼ぶ者もいる。


シキには、

どちらが正しいのか分からなかった。


ただ一つ、

分かったことがあった。


この世界には、

救われることを望まない者もいる。


そして、

救いそのものを拒む自由まで奪われたとき——


それをまだ、

救済と呼べるのだろうか。


シキは村を出た。

山道を歩きながら、

昨夜の言葉を思い出していた。


「死なぬことを、なぜ救いと呼ぶ。」


答えは、まだない。

だからシキは歩く。


世界には、

まだ見ていない「救い」がある。

まだ知らない神がいる。


そして——

人間の願いを、

あまりにも正しく叶え続ける者たちがいる。

救済とは、何を与えることなのか。

それとも——

何も奪わないことなのか。

第一章|死なない村(終)